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呉服の「はたまん」昭和36年頃の風景 移 動: 孫の湯(東恋4) 養老の滝北口店(本町3) 星野模型店(本多1) 山崎商店(東元3) はたまん(本町2) 梨花苑(南町3) 白山房(本町3) 国分寺百貨店(〃) 時代を飾ったお店 多摩TV(本町2) 内野左官店 営業中: 名曲喫茶 でんえん(本町2) フジランチ(本町2) ろばや(本多1) 小料理 信濃(本町3) 明治22年(1889)に開設された「国分寺駅北口」 トップへ
国分寺駅明治22年(1889)に甲武鉄道(現中央線)の新宿駅から立川間が開通され、当時に開業しました。本来甲武鉄道は新宿迄で、西に延長する際に府中を通る計画でした。しかし当時は養蚕が盛んだったために蒸気機関車から出る「煤煙」が養蚕産業に大打撃を与える事から猛反対にあいました。その結果、甲武鉄道は国分寺を通る事となったそうです。この当時は駅の改札口は北口のみで南口が開設するのは1956年で、それから67年後のことでした。
甲武鉄道時代の国分寺駅開設後5年後(1894)には、川越鉄道が開業しました。この様に国分寺駅北口は人々が集まり、国分寺駅北口は商業が盛んになりました。 さて、上の写真は昭和36年頃に田中丈夫氏が撮影した、国分寺駅前交差点の東側の写真です。街路灯には「大学通り」の文字が見えますが、現在は南口から通学する学生さんがほとんどですが、南口が開設される前からあっので、この通りが東京経済大学の通学路であった名残です。当時は、自動車はほとんど貨物車やミゼットなどの軽トラックで自家用車豊かな人だけの物で普及していませんでした。ここで目に付くのはラビットスクーターや自転車が移動手段のほとんどでした。この当時は広さに余裕がある様に見えますが、その後モータリゼーションが広がると、とても危険な道になってしまいました。こんな風にのんびりとした時代で、現在豊かなものを沢山失っている様な気がします。 大学通りの老舗はたまん トップへ
上の写真は、昭和36年頃に国分寺駅北口の商店街を撮り続けた田中丈夫氏の写真です。先述しましたが、ここは国分寺駅北口駅の北に向かう大通りと最初に東西の道の交差点少し入った東に向かった写真です。ここで取り上げる「呉服のはたまん」は左にあります。 この機萬呉服店の創業は明治24年(1891)です。初代の内野松五郎が、明治22年に開業したばかりの甲武鉄道(現中央線)の国分寺駅前に出店するため、武蔵村山の中藤より出てきたのが始まりです。以来、国分寺市内はもとより、周辺各市の多くのお客様に支えられ、企業統制によって閉店を余儀なくされた戦中、戦後の苦しかった時代も乗り越えて、今年で120年を迎える事が出来ました。< 出店した明治24年頃は現在の北口駅前の道路は無く、当店があった現在の西友の前の道が府中に向かう唯一の道路(旧国分寺街道(P.3参照)でした。道の東奥には中央線を渡る踏切があり、それを渡ると岩崎別荘(現在都立殿ヶ谷戸庭園)の東側に府中に向かう道が続いていました。 昭和30年頃から徐々に着物ばなれが始まり、また40年代に入ると商店街自体のお客様も減少してきましたので、ビルにして西友をテナントとして1階の西側に店を置くことにしました。 平成13年には西友の中の店はスターバックスにお貸しして、北北東の駐車場に近い現在の場所に移ってきましたが、明治からの客様の中には、お子様、お孫様、曾孫様と四代に渡ってごひいきにしていただいている方もいらっしゃいますので、本当に有り難いと思っております。 CHSのIROIROサイト:人気サイト トップへ |