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東京の博物館・動物・水族園の一部をご覧になれます。

国分寺崖線と恋ケ窪谷

移 動: 国分寺崖線 恋ヶ窪谷 国分寺の用水と恋ケ窪村分水

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   国分寺崖線      トップへ

 現在よりさかのぼること約10万年前、現在、府中を流れる多摩川は広い扇状地を作っていました。大雨による洪水などで川筋はその度に流れを変えました。その頃、恋ケ窪は多摩川の流路にありました。
 5万年前頃に氷河期がやってくると今までの海面は下がり、扇状地ができるくらい緩やかな流れだったものが、勾配がかなりきつくなり扇状地を削りました。それが武蔵村山市緑が丘から等々力渓谷まで続く、高低差が約20mに及ぶ国分寺崖線となりました。現地におもむき高低差のある崖の当時の様子を想像すると脳裏に大きく広がった多摩川の景色が広がっていきます。 右上の地図をクリックすると別ページで開き、ポイントをクリックすると崖線の各地の写真をご覧になれます。

国分寺市内の坂道と国分寺崖線の写真はこちら! 国分寺市の湧水(5ヶ所)のページは、こちらからご覧になれます。

   恋ケ窪谷      トップへ

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西国分寺駅東から東福寺に向かう阿弥陀坂     南口中央線花沢陸橋から西方向へ下る線路沿いの道

 西国分寺駅の東側(東福寺周辺)は、自転車で上るには辛いくらい急に勾配が落ちています。当時はこの崖から湧き出た水や、小川などが多摩川本流に滝となって流れ込んでいました。この小川に長い年月削られ谷ができました。これが東福寺東側に広がる窪である恋ケ窪谷になりました。江戸時代の明暦3年(1657)には玉川兄弟がひいた玉川上水より分水がおこなわれ、この地にも「恋ケ窪用水」許可されました。引かれ田畑から農作物も収穫することができました。しかし、窪地がゆえの冠水で悩まされ、下水道が整備されてから宅地化が行われ水田は姿を消していってしまいました。この高低差から湧き出る清水を利用復活するため、平成10年に東京都と国分寺市は姿見の池「国分寺姿見の池緑地保全地域」として整備しました。
 この整備に寄って清水が流れ込む池には小魚や水草などを求め、カワセミ・カモ・オシドリ・サギ類が訪れています。こんな場所が、西国分寺東側の住宅街にあります。資料「恋ケ窪谷の水の歴史と健全な水循環の再生」看板より一部抜粋

   恋ケ窪村分水      トップへ

 恋ヶ窪用水路跡は、この恋ヶ窪用水路周辺緑地の北側で見ることができます。享保きょうほう年間(1716~1736)新田開発が盛んに行われ、市内にも多くの新田ができましたが、いずれも水利がなく、玉川上水からの分水に頼っていました。
 国分寺村を流れていた用水は、立川市の松中橋付近で玉川上水より分水され、五日市街道に剃って流れて来た砂川用水の分水です。この用水は国分寺市内に入ると五日市街道を挟んで南北二つに分かれて、北町と並木町の農家の屋敷内を東に向かって流れていました。
 この恋ヶ窪分水は、五日市街道南を流れる用水が二ツ塚通り交差点で南へ曲がり、窪東公園の西側の道(暗渠)を流れ府中街道東側を流れ東恋ヶ窪5丁目方向へ流れます。一つは孫の湯通り南側(暗渠)から国分寺駅南口方向へ流れる「国分寺用水」に分かれ、一つは西恋ヶ窪(熊野神社)あたりを通りこの辺りの田畑を潤していました。参考:みにこみ国分寺28号「野中・榎戸新田分水」より

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国分寺市指定文化財 恋ヶ窪村村分水の南入口と「恋ヶ窪村分水」の説明看板
恋ヶ窪用水周辺緑地のページは、こちらからご覧になれます。

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