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野鳥サイト(106種)

野鳥サイト

国分寺周辺の野鳥
国分寺周辺の野鳥

超望遠レンズなどで撮影した、身近な野鳥や、水辺の野鳥などをご覧になれます。

戦時中の本多界隈とs36年の二丁目周辺

大正5年の恋ケ窪新田 大正12年頃の国分寺村 昭和2年の北口駅前航空写真 戦時中の本多界隈の地図 国分寺駅北口今と昔 再開発で消えた思い出の景色 国分寺駅前大通り 本町二丁目交差点周辺 大学通り東栄会通り
     
     

   昭和10年代の本多二丁目〜国分寺三小周辺地図      トップへ

国分寺市発行の「国分寺市戦後50年記念集」をもとにリメイクいたしました。
印をクリックすると、同じウィンドウで開きます。 さらに大きい地図はこちら  戻るにはブラウザの戻るボタンを使ってください

 知り合いの友人から戦前の手書きの本多の地図があるということで、お借りさせていだきました。その地図を元に現在の道路と重ね合わせてこちらで作成して見ました。


昭和20年頃の国分寺市本多地域で、連尺通り南には貫井用水の水路がありました。

   昭和30年代の本多二丁目交差点      トップへ

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昭和30年代の本多2丁目交差点の風景

 この写真は、昭和30年代の本多二丁目交差点の連雀通りを西に向かって写したものです。
 昔の本多二丁目交差点の記憶があるのは昭和36年頃で、子供の頃にはその交差点はかなり遠く、「冒険領域」でした。それなのにかすかに記憶があるのは、この左側の木々がある足元に「貫井用水」の水路(当時は小川と思っていました)があったのが強烈に記憶に残っています。
 国分寺駅近くに住んでいた為、本多には現在のたましん手前にある駄菓子屋と、現在の札の丘商店会にあった関根玩具店辺り迄はたまに行っていました。この写真はさらに北の現在の「本多二丁目交差点」で、東西に通る連雀通りの西方向を写しています。写真では分かりにくいですが、当時の十字路などの交差点には、自家用車時代がまだ訪れる前で車の台数も非常に少なく道には時たま通るくらいでした。この写真では、交差点の自転車店側の少し奥にオート三輪と、道のかなり奥に自動車らしいものが見えます。

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昭和30年代の本多2丁目交差点の風景こちらは道路が修復されていますが中央の線がありません。

 この時代では自家用車は殆ど目にすることはなく、商業車のライトバン、トラック、ミゼットの様は小さな貨物位でした。こんな交通状況だったものですから、交差点には一時停止の標識がありました。ここに写っている標識は、現在の三角形の「止まれ」と書かれている赤い標識ではありませんでした。昔の一時停止の標識は八角形で、米軍占領下だった為にアメリカで使われていたこの形が使われたと思われます。この柱には、「東京都公安委員会」の文字があります。しかし上の写真では、標識柱が木の様に見えますが、こちらはしっかりした素材にみえます。また、表記が中央のSTOPが「止まれ」に変わっていて時代の移り変わりを感じます。また、上の写真よりも交通量が幾分多く見えます。当時の本多二丁目交差点の北東角には、少し前まで現存していた「飯田米穀店」(現ファミリーマート本多5丁目店の場所)が見えます。今は決して広くない連雀通りがとても幅広く見えます。

   昭和30年代の本多二丁目交差点北      トップへ

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昭和30年代の本多2丁目交差点北側の風景

 こちらは、みにこみ国分寺33号の「国分寺 今・昔」に掲載された本多二丁目交差点の北側の商店街です。撮影は昭和36年頃です。交差点にはまだ信号機が付いていませんが、「トヨペット・マスターライン」や商業用のトラックが見えます。交差点を横切るのはパブリカの様に見えます。正面から中型のオートバイがみえますが、この当時はヘルメット装着の義務はありませんでした。左手には今は目にすることがない「リアカー」が見えますが、当時は自転車で引いている光景をよく目にしたものです。

「東北地方太平洋沖地震災害」の被災者の皆様に心よりお見舞いを申し上げます。C.H.Sコーポレーションではチラシ・ポスター等売り上げの一部を、日本赤十字社 東北関東大震災義援金へ寄付させていただきました。
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