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国分寺周辺の野鳥
国分寺周辺の野鳥

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江戸東京たてもの園/西ゾーン2

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 常盤台写真場   ▲top

 都立小金井公園の中央より西側部分に、この「江戸東京たてもの園」があります。園内は3つのゾーンに別れていて、江戸時代末期から昭和中期までの建物が展示されています。展示されている建物は、農家、住宅、商店、旅館、銭湯、交番などがエリアごとに移築展示されています。
 こちらでは西ゾーンを農家のエリアを西ゾーン1として、住宅が多い東側のエリアを西ゾーン2としてご紹介してあります。 ここでご紹介する建物の建築時期:大正14年〜昭和27年
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 健康住宅地として開発された郊外住宅地常磐に建てられた写真館です。照明設備が発達していない当時、最も安定した照度を得るために、2階写場の大きな窓には北側から光を採ることが出来るようにな磨りガラスがはめ込まれています。
〔板橋区常盤台一丁目/1937年(昭和12)〕

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 三井八郎右衛門邸   ▲top

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 港区西麻布に1952年(昭和27)に建てられた邸宅です。客間と食堂部分は.1897(明治30)頃京都に建てられ、戦後港区に移築されたものです。また蔵は1874年(明治7)の建築当時の土蔵に復元しました。
〔港区西麻布三丁目/主屋:1952年(昭和27)土蔵:1874年(明治7)〕

 前川國男邸   ▲top

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 日本の近代建築の発展に貢献した建築家※前川國男の自邸として、品川区上大崎に1942年(昭和17)に建てられた住宅です。戦時体制下、建築資材の入手が困難な時期に竣工しています。外観は切り妻屋根のわふう、内部は吹き抜けの居間を中心に書斎・寝室を配したシンプルな間取りになっています。
〔品川区上大崎三丁目/1942年(昭和17)〕

  前川國男  トップへ

 ※ル・コルビュジエ、アントニン・レーモンドの元で学び、モダニズム建築の旗手として、第二次世界大戦後の日本建築界をリードした。丹下健三、木村俊彦は前川事務所の出身であった。 近代建築を最初に生み出した西ヨーロッパからみれば後進的であった日本に、真正の近代建築を根付かせるという使命を自らに課すことから出発した前川國男は、日本と日本建築界は当時の先進地域と同水準の技術的な土台、経済的下部構造または生産の社会的諸条件を備えるべきであり、もしそれが先行あるいは並行して実現されなければ、日本の近代建築は見せかけだけの偽物にとどまるしかないであろうと考えた。
 資材統制が終わった1950年代に前川は「日本相互銀行本店」をはじめとする諸作品によって「テクニカル・アプローチ」の範を示し、日本における近代建築の技術的諸課題の克服に直接的かつ間接的に寄与した。
 しかしその設計作品は、初期および中期においてさえ、均等ラーメン構造、工業化、機能主義等によって特徴付けられる(いわゆる国際様式の)単なる近代建築というよりは、「光の下で組み合わされた諸々のヴォリュームの巧緻精確で壮麗な遊戯(ル・コルビュジエ)」とみなすことができ、人間的な尺度と民俗的または土着的な温かみを兼備している。
 1960年代半ば以降、前川は産業社会とそれを支える合理主義のいくつかの側面にきわめて批判的になったが、近代運動の理想の最良の部分を最後まで放棄しなかった。なによりも強調するべきことは、前川はその生涯を通し建築家の職能と職業倫理の確立のために尽力したと言い得る。
(資料;Wikipediaより抜粋)

 田園調布の家(大川邸)   ▲top

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大川邸:大田区田園調布四丁目/1925年(大正14)

 1925年(大正14)郊外住宅地の一つである大田区田園調布に建てられた住宅です。居間を中心に食堂・寝室・書斎が配置されています。また、当時としては珍しく全室洋間となっています。

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大川堤の特徴の棚

 小出邸   ▲top

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文京区西片にあった小出邸

 日本におけるモダニズム運動を主導した建築家※堀口捨己が、ヨーロッパ旅行からの帰国直後に設計した住宅です。当時オランダに流行していたデザインと、日本の伝統的な造形を折衷した造りになっています。  〔文京区西片二丁目/1925年(大正14)〕

  堀口捨己  トップへ

 堀口 捨己(ほりぐち すてみ、1895年1月6日 - 1984年8月18日)は、日本の建築家。ヨーロッパの新しい建築運動に心惹かれ、東大同期生らと従来の様式建築を否定する分離派建築会を結成。後に日本の数寄屋造りの中に美を見出し、伝統文化とモダニズム建築の理念との統合を図った。
 論文「利休の茶」で北村透谷賞を受賞。また歌人として、さらには日本庭園の研究家としても知られる。日本の建築と庭園の関係を「空間構成」としてとらえ、昭和戦前期より庭園に関する資料を収集し、1962年に神代雄一郎と共著で外国人向けに『Tradition of Japanese Garden』を、1965年に庭園論集『庭と空間構成の伝統』を出版、1975年に出版された自らの作品集の名称は『家と庭の空間構成』としている。
 1984年8月18日死去。本人の意向により、その事実は公にされなかった。関係者の間ではうすうす死亡したのではないかと噂されていたが、1995年1月28日に開催された「堀口捨己生誕100周年記念行事」の際に初めて公にされた。(資料;Wikipedia)

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