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国分尼寺エリア:武蔵国分寺の寺域 武蔵史跡公園・国分尼寺跡 トップへ
武蔵国分寺は、東西880㍍、南北550㍍と広大な寺域がありました。実際は史跡武蔵国分寺跡で、現在ある武蔵 國國分寺はその史跡の北東の位置にあります。上の地図にありますように、現在の府中街道の西側には、伝鎌倉街道が通っておりその路の傍に国分僧寺と国分尼寺があったと云われています。また現国分寺のお寺がある、府中街道の東側には、石碑が埋まっている場所に金堂、その北側には講堂があり、さらに後に再建された現在の薬師堂のある南には北方建物がいわれています。さらにその東南東には、現在史跡となっている七重塔があったと云われています。 国分尼寺跡/東山道武蔵路西側 トップへ
「西元町四丁目のJR武蔵野線西側に武蔵国分尼寺跡が広がっており、国指定史跡武蔵国分寺跡に一括して指定されています。史跡指定地は、公有地化と整備事業を終え、国分寺市最初の市立歴史公園として平成15年4月に開園しました。
ここ、国分寺市歴史公園(東京都国分寺市西元町2丁目9−9周辺)は武蔵国分寺址の西側の府中街道を挟んだ位置にあります。距離的には西国分寺駅の南約1kmで、JR武蔵野線の西側にあります。近くには黒鐘公園があり、午後や休日にはたくさんの子供達の声で賑わいます。 巨大な幢竿跡と武蔵国分尼寺金堂跡(どうかん) トップへ こちらは、武蔵国分尼寺の南端にある幢竿跡で少し高い場所に金堂がありその北には講堂(推定)があり、この間の西には経蔵、東には鐘楼(ともに推定)がありました。またさらに北には尼坊がありました。sこの一角の南には中門、東には「東門」がありました。このエリアの外側にも区画溝が掘られていて南大門があったと推定されています。 武蔵国分尼寺・尼坊跡 トップへ こちらが武蔵国分尼寺の北端にある尼坊で、当時の様に礎石が並んでいて僧寺の尼坊の大きさが推測できます。 【尼坊跡】(以下現地説明板より引用) 「尼僧の住まい。中軸線上にのっており、講堂の背後に建てられた。 桁行15軒約44.5m、梁行4間役8.9mの東西棟礎石建物。本が藁葺き、切妻造。柱の下にあった礎石70個は全て失われたが、基礎工事さ、同じ構造の5房からなる。各房の間取りは不明だが、法隆寺東室(奈良県)など現存する古代の僧坊を参考として、房境は梁行4間分を壁で仕切って各房を独立した居室とみなし、各房中央間の両端を扉とし、扉の両端は蓮子窓とするなど、下図のように想定した。 房内は扉、壁などで仕切られて複数の室があり、比留間の居住、勉学の間や寝室などの場であったと考えられる。土間か床張りかは不明だが、土間とすればテーブル、イス、ベッドの生活となる。 尼僧の定員は天平13年 (741)の国分寺建立の詔に10人と規定されている。その後変化もあったが、僧寺の僧坊が尼坊と同じ規模の建物2棟で、僧侶の定員が20人(同詔)とされたのに対応する。こうした正規の尼僧の他に、修行中の尼僧や召使いなどが従事して、共同生活を行っていた。 整備にあたり、礎石は往事と同じ多摩川産の石(チャート・砂岩)を新たに据えた。また壁となる部分は黒レンガで表現した。」 伝鎌倉街道 トップへ
「現在の「鎌倉街道」の名は、近世になって使用されたもので、鎌倉当時は武蔵国内を通過する主要道路は上の道、中の道、下の道と呼称されてい ました。鎌倉以前の幹線道路である東山道武蔵路と道筋の重なる「上の道」が、現在の鎌倉街道にあたります。鎌倉から町田・府中を経て、国分寺市内の武蔵国分尼寺跡西側-泉町交差点付近-小平を通り、上野(群馬県)、信濃(長野県)方面にのびています。市立歴史公園(武蔵国分尼寺跡)の北側にある国分寺崖線を切り通した約120メートルの道が「鎌倉上道」の名残といわれて保存されています。」 武蔵国分寺周辺 1 2 3 4 5 6 7 8 次は・僧寺跡
写真撮影:NikonD7000+VR16-85mm,D80,NikonD800+24-70mm,NikonD500+VR16-35mmf4
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